9月例会 松代視察と真田三代講演

  • 講演:真田三代について
  • 講師:松代文化施設等管理事務所 学芸員 降幡浩樹氏
  • 日時:平成22年9月24日(金)11時~
  • 視察:真田邸・真田宝物館
  • 講演=長野商工会議所松代支所
  • 出席者:10名(※事務局2名含)

 

9月例会 松代視察と真田三代講演

 

松代企画の第二弾として、真田氏の足跡をたずねてみよう、を合言葉に講演会と視察をしました。

真田一族は最近の戦国ブームもあり、全国的にも人気があるようです。また、私たちにとって、大変身近な武将ですが、専門家の講演と真田邸や宝物館での見学・説明を聞いて、改めて確認することができ、有意義な例会となりました。

基礎知識

信濃小県郡真田郷から発祥した真田一族は、初代幸綱のときから武田信玄に仕えたが、その子昌幸の代の1582年(天正10)、主の武田勝頼が滅亡した。同年の本能寺の変で織田信長が自刃すると、たちまち旧武田領をめぐって上杉・北条・徳川による争奪戦がはじまった。昌幸は本拠の小県と上野国沼田領の支配権を守るため、三強の間で巧みに主家替えを繰り返しつつ、上田城の築城に着手する。

そのさなかの1585年(天正13)、北条氏への沼田領返還命令を拒否したことで、徳川家康と対決。上田城に拠る昌幸は、寡兵で徳川の大軍を撃退した。これが第一次上田合戦である。

戦後、羽柴秀吉の計らいで家康と和解し、1589年(天正17)には秀吉の裁定で沼田城を北条氏に明け渡すが、このとき昌幸に残された名胡桃城を、北条の城将が奪うという事件が起こる。これを口実に秀吉がはじめた小田原合戦に参戦。昌幸は豊臣大名としての地位を確立し、沼田城も真田に安堵された。

秀吉没後の1600年(慶長5)犬伏(栃木県佐野市)で石田三成挙兵の密書を受け取った昌幸は、次男幸村(本名信繁)とともに豊臣方に、長男信幸(のちに信之)は徳川に味方すると決めた。離反した昌幸を討伐するため、上田城を攻めた徳川秀忠軍約3万8000は、敗北した上、関が原合戦に遅参してしまう。これを第二次上田合戦という。

関が原での西軍敗北後、昌幸は高野山に配流されて生涯を終えたが、徳川の大軍を二度までも破ったことにより、真田の勇名は天下に知れ渡った。